2011年1月21日金曜日

演出ノート9

美術打ち合わせ。
舞台美術家の大泉七奈子さんとは、「家族アート」初演からのご縁です。

圧倒的物量希望ということと、
物と俳優が絡みたいということと、
センチメンタルを抜きにということばかり言う。

やっぱり感情というのはあって、
「動く」でも「揺れる」でも「振れる」でもいいのだけれど、
ここではあえて「惑わされる」という言い方したい。

惑わされたくない。
というか、こちらが提示する側というのを踏まえて言えば、
お客さんを惑わしたくない。

感情にはいい感じなのも嫌な感じなのもあるのに、
感じたがり過ぎが多いのじゃないか。

感動が悪いということではなくて、
私も大概感動したがりだなとよく思いますし、
でも、「感動した!で、その後。」がある。
これは感動中に死なない限りある。

泣きやまないことはない、と思っていて、
涙の別れの翌日には涙は乾いてお腹が空いてトイレにも行くし、さ。と。

小学生のときにクラスで「はだしのゲン」を見て、やっぱり圧倒的な恐さがあって胸中非常にギャーとショックを受けていたのですが私は泣きはしなくて、「あれ、かおりちゃん、泣いてな、い、、?」みたいになって、待ってやめてその涙で何かを測るようなのやめて、みんなは共振して何かが増幅されただけじゃないか、それがいけないわけじゃないけど共振しなくたって、私も私で驚いてるよ、と思いました。

共感も、別にいんだが、でも共感はきっといつか去るよ、それってミーハーだよ、ミーハーでも別にいいけど私はミーハーじゃない方とりたいよ。

悲しさやショックの深さは、例えば何日ご飯が喉を通らないとか、そういう物量ではない。
痛みはただそのものとしてあるだけであって、私たちは別に痛々しさへ向かわなくって一向かまわないと思います。

物量ではないこと示すために、たぶん物量は使えるのじゃないか。

「家族アート」原作者の伊藤比呂美さんの詩に「アウシュビッツミーハー」というのがあって、それはアウシュビッツに大量に積まれた殺されたユダヤ人の髪の毛、歯ブラシ、靴、写真、その圧倒的量感を前にすると人は飽きてしまう、量感は個を消す、人は他人にそこまで感情を持ち続けられないということが書かれた作品です。

人には惻隠(そくいん)の情というのがありますから、それはまさに自分の隣で子供が井戸に落ち掛けていたら誰だってとっさに助けるでしょうってそういうヒューマニズムですが、でもそれは「とっさ」であって、一過性のミーハーかもしれない。
ミーハーが積極的に悪いと言ってるんではなくて、それはただ一過性の一瞬の、それだけのものだろうということです。
疑う余地なく惻隠の情というものはありそうですが、私はもっと疑って疑って、分け入った先を見たいです。

2011年1月19日水曜日

演出ノート8

死骸になりたさ、について。

抜けがけはナシよと思っている。
死んでイチ抜けはナシだ。
それは、大ブーイング。

でも一方で、自分の死後(直後)について妄想する。

死骸になりたい。
遺体でも死体でもなく、死骸である。

遺体は生前の事情を引きずり過ぎている。
遺体に向けられる尊重は、故人の生前の立派さ、功績に負うている気がする。

死体は土気色すぎる気がする。
単純に物質的に、質の落ちた肉のように思う。

死骸が一番、生きていた私が死んだだけ、それだけという気がする。
死骸の私は私のまま、一段とばしで大事にしてもらえる。
貧血起こした子が日陰で体育見学させてもらえるように。

でも幸い、残念ながら、私は血が多めにできているようで。
貧血なんてついぞ起こしたためしがないのです。

そして私は、女の人が怖い。
男の人より万倍怖い。
だからやっぱり、貧血とか起こせないのである。

つまりヘモグロビン以前に根性的な問題で、やはり死骸になるしか手はないか、とか、考える。

2011年1月17日月曜日

演出ノート7

稽古初日でした。

で、一切、スポーン!と見失う。

稽古終了時は、とまれ、今日はくたくただ…とりあえず寝よう、と思ったが、
ヒュゴオオオオオと嵐がやってきて、これは眠られんとなって、今。

初演の台本に、テーマ的に興味がなくなっているのだった。
なくなったというか、移った。
2年前の私にはリアリティのあったものが、今はなくなっていて、
それは当然あり得ることなので、まあやるしかないですね。

当然あり得る、のだけれど、
ここまでスッカーンと自分が変わってしまっていることに今日気付いたので、
単純にそこに参りました。

でも、むしろ今日分かってよかった。

どうしたら正解にたどり着けるかは分かりませんが、
興味の持てないことは今やめる。
で、次に何するか考える。

再演って何なのだろう。

2011年1月16日日曜日

演出ノート6

当事者について。

何か語ることに対して、「当事者でもないくせに」というのと、「当事者しか語ってはいけないなんてことはなかろ」というのがある。

当事者でない人はどんなに頑張っても当事者にはなれないが、でも当事者がなんぼのものだろう。

というか、
みんながそれぞれにそれぞれの立ち位置からの当事者である。と思う。

…説明が下手くそだ。

イライラするのは、当事者になれないのに情報としては手渡されること。
別にむやみに当事者になりたいわけではない。面倒くさいし。
ただそれなら、いっそ他人事としても知らずにいさせてくれればよいのに、と思う。
巻き込まないで、放っておいて、うるさいうるさいよ!と思う。

出来事からの距離が近いからえらかったり(発言等できる)権力が発生したりするわけではないと考えてみる。
遠くたって、本当に話したかったら話してもよい。
(「よい」とかいうのも本当はおかしくて、許可や権利ではなくて、話したいこと、話せることを話すだけだと思うが)

正直に切実な興味で話すことを望んでいる。
それは、興味がなくてどうでもいいのなら話さなくたっていいということです。
どうも、「自分に近いことならば好きに話してよい」という前提があって、「話していいなら、じゃあ」といって話さなくてもいいことまで話し過ぎていないか?という気がする。
これは勿論、自分も含め。

「当事者なら話してよい」ということを前提に話されることは、どうも当事者の範囲内に囲われてしまうというか、当事者以外には下世話趣味・のぞき趣味以外で接続しようがないものになってしまう気がする。
結局他人はどうでもいいのだ、となってしまう。「当事者!」と言われると。

「みんながそれぞれにそれぞれの立ち位置からの当事者である」と書いたけれど、それは、昨日の私に対して今の私は当事者になりえないということでもある。
昨日、というのは大げさだけど、例えば大人になってしまったら、子供の頃の自分について当事者として語ることは出来ないということ。
それは、あくまで「今の私が思い出して語っている」という距離になるということ。

距離が近いからその語りに価値があると思うわけではない。
ただ、当事者として語れることの少なさは思う。

でも無理なものは無理なんで、
その距離を踏まえてどう語れるだろうと考える。

当事者でない人が当事者ぶること、距離や関係を捏造することは、いやらしいなと思う。

2011年1月3日月曜日

2010→2011

新年あけましておめでとうございます。

旧年中は、大変多くの方にお世話になりました。

公演を観に来てくださったお客様、
劇評を書いてくださったり、メディアに取りあげてくださった批評家、マスコミの方々、
ワークショップ・オーディションにご参加くださった方々、
鳥公園をイベントにお誘いくださった他団体の方々、
そして一緒に作品に向き合ってくださった、俳優、スタッフの方々、
稽古場の外で支えてくれた家族、友人、恋人も、
みなさま本当にありがとうございました。

#3「おばあちゃん家のニワオハカ」から始めた
出演者募集のワークショップ・オーディションでは、
魅力的な俳優さんたちと出会うことが出来ました。
市田邸という空間にも大いに助けられ、
NPOたいれき歴史都市研究会のみなさま、
根津の街と、そこにお住まいのみなさまにも本当にお世話になりました。

#4「乳水」は
久々の劇場公演ということで、頼もしいスタッフさんたちにお力添えをいただき、
「マガジン・ワンダーランド」さんの初日レビューや
「演劇ぶっく」さんに取り上げていただいたり、
また実在の事件を元にさせていただいたという意味でも、
本当に色々な方に関わっていただくことで成り立っていた公演でした。

振り返るとどの公演も、当然ながら、
ものすごく大勢の方のエネルギーが注がれてできています。
改めて、これは大変なことです!本当に。

新しい一年、とその先、のことを考えていて思うのは、
私たちはもっともっと多くの方の力を借りなければいけないということと、
一方で、どこにも寄りかかってはいけないなということです。

もっと大勢のお客さんに見て欲しいとか、
そのために評判になれたらいいなとか、
それはやっぱり色々思うのですが、
でもそのためにも、全部のはじまりは信頼できる仲間を見つけることだと思います。

なんかやっぱり、「わざわざ」こんなに人が集まってやっている、という感じがあって。
だったら一人の(あるいは少数の中心人物の)アイディアに全員集合するよりも、
「さあ、集まりましたよ!」というところから始める方が
面白いんじゃないかという気がします。

場があって、
そこに集まった人たちがあーでもないこーでもないとやり合って、
ふと我に返ったら一体どうやってそこに行ったのか分からないような、
でもボーンと出されるとそうでしかありえないと思えるような、
そういうものを作りたいと思います。

人はみんな、色々言います。
お客さんも批評家も同業者も。
色々言っていただいて構わない。
それは止めようがないし、とても有り難いことでもあります。

でもみんな、それぞれ自分の見方で見て、自分の言い方で言うのです。
良いも悪いもなくて、それしかないと思うので、
ただそれをどう聞くのかは、自分で決めなければね。

当たり前のことですが、忘れないように書いておきます。
色々なこと、言っていただいてそのたびやっぱり動かされるので。


2011年は、
鳥公園に入りたいと言ってくれて、私たちも一緒にやりたいと思う人が現れたらいいな。
でも入らなくったって、まずはお互い一緒にやりたいと思う出会いを、心待ちにしています。
そういうお互いの気持ちが一回一回続いて、結果ずっと何回もやれたらいい。

まずは3月の#5「家族アート」再演@鳥の劇場です。
頑張ります。

本年も精進して、大きく変化していきたいと思っています。
何卒よろしくおねがいいたします。